
「キャー!」
マヤの悲鳴に亜弓は我に返った。
『私、マヤを見殺しにしようとしていた・・・。』
つり橋を見ると、マヤはふちにつかまって宙吊りになっていた。落ちれば谷底へ一直線。
亜弓は急いでマヤのところへ行き、手を差し伸べた。
「マヤ!」
「亜弓さん!」
『私この子がうらやましくてとんでもないことを・・・。お願い助かって!」
マヤの手が伸びる。亜弓はしっかりとマヤの手を取った。そして引き上げようとしたその瞬間。バランスを崩し、亜弓とマヤは谷底へと落ちていった。
「マヤ!マヤ!グズグズしないで早く起きておいで、遅刻するよ。」
『マ・ヤ?えっ』
亜弓は静かに目を開けると、そこは見たこともない部屋だった。薄汚れた天井と壁。小さなタンスに勉強机。
『ここはどこ?』
「もういったい何やってんだよ。」
ぶつぶつ文句を言いながら白衣を着たおばさんが部屋に入って来た。
「どうしてこの子はこんなにグズでのろまなんだろうね。」
「マヤ、どうしんたんだいボーとして。」
「マヤ!えっ!私がマヤ。」
「何当たり前のこと言ってんだい。おかしな夢でも見たんじゃないかい。」
おばさんは亜弓の顔を不思議そうに覗き込んだ。が、すぐに
「杉子さんはもうご飯食べてるよ。あんたも早く顔を洗っといで。」
と言って部屋を出て行った。
亜弓は自分の顔に手を当て、いつもと違うことを実感した。
『うそでしょう?』
あわてて飛び起き階段を駆け下りて洗面台を探した亜弓は、鏡に写った自分を見て絶句した。
『マヤ・・・。そんなまさか・・・私マヤになっている。』
そこへ先ほどのおばさん、春子がやって来た。
「何変な顔をしているんだい。さっさとご飯食べておしまい。」
「あのー。」
「なんだい。」
「ここはどこですか?」
マヤになった亜弓の質問に春子はあっけにとられた。
「いったいどうしんだい。何ふざけたことを言っているんだい。もうこの子はテレビの見過ぎでおかしくなってしまったんじゃないのかい。」
うろたえた春子を見て、亜弓はあわてて
「ごめん、何でもない。」
『この人にほんとのことを言ってもたぶん信じてはくれないだろう。しかたがない、今はマヤでいるしかない。しばらくマヤのふりをして過ごそう。マヤの才能を羨んできっと悪い夢を見ているのだわ。』
しかし亜弓はマヤのふりなどしなくても良かった。気持ちは亜弓でも、体はしっかりマヤだったから。
学校へ行った亜弓は恥のかき通しであった。
数学の時間では簡単な問題も解けず、家庭科では雑巾も縫えない。体育では跳び箱に体当たり。
先生には叱られ、同級生から嘲笑され亜弓はもういたたまれなかった。
『あの子がこんなにもおバカで不器用だと思わなかった。私はずっと成績もトップで運動神経も悪くないわ。裁縫だって苦手じゃない。こんな屈辱初めてだわ。』
学校から帰って着替えていると、春子の怒鳴り声が聞こえてきた。
「なにグズグズしているんだい。出前が待ってるよ。」
『マヤのお母さんってどうしていつも怒って話すんだろう。ばあやはいつも笑顔で帰りを待っていてくれたのに。』
「2丁目の佐々木さんとこへ持ってお行き。途中寄り道するんじゃないよ。」
ラーメンと餃子の入った岡持は、けっこう重かった。
『マヤはこうやっていつも出前をしていたのね。ラーメン屋の住み込みで苦労していたって聞いたけど本当だったのね。』
亜弓は映画館の前に差し掛かった。看板には姫川歌子のスチール写真が掲げられていた。
『ママ・・・。』
思わず立ち尽くしていると、
「ちょっとあんた、万福軒さん。出前ならはやくお入りよ。」
「えっ、私は別に・・・。」
その場を去ろうとしたが、
『「雪の祭り」か、ママと試写会で見たっけ。懐かしい・・・。ちょっと、ほんのちょっとだけ、ママに逢いたい。』
フラフラっと映画館の中に入っていた亜弓は、スクリーンの中の歌子に見とれていた。
『ママ・・・。』
もっと近くで見たいと足を踏み出したとき、
ガタッ!
「あっ!」
岡持が倒れ、中のラーメンがこぼれ出た。
「いけない、出前の途中だった。」
「ろくでなし!出前の途中で映画館に寄り道するなんて!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません。」
「いつもそんなこと言ってだますんじゃない!」
『あの子ったらいつもこんなことしていたの』
マヤになった亜弓には毎日は厳しかった。
学校へ行き、帰ったら店の手伝い。不器用なマヤの体のおかげで、皿を割ったりしておかみさんや春子に叱られてばかり。
ゆういつの楽しみのテレビも店の主の娘、杉子に邪魔され思うようには見れない。
亜弓はだんだん心細くなっていった。
ある日亜弓が公園の前を通ると、子供たちが駆け寄って来た。
「この間見たのはどんな映画だったの?マヤお姉ちゃん。」
「えっ。」
「前みたいにやって見せて。」
『マヤったら。』
亜弓はくすっと笑って、時代劇を始めた。
身振り手振りで
「おう!てめェ。なめちゃいけねェぜ!」
とやっていると、月影千草が現れた。
「あ、あなた名前は・・・?
そうよ、あなたよ・・・あなたならやれるあなたなら・・・
ものすごい力で腕をつかまれた亜弓はとっさに手をふりほどき逃げ出した。
『月影先生?すごい迫力。思わず逃げ出しちゃったけど、これでマヤは先生に才能を見出されたのね。』
もう少しで年が明ける。けれども亜弓は相変わらずマヤのまんまだった。
『このまま元に戻れないのかしら。』
『マヤになって、マヤの生活をしてわかった。マヤがお芝居にどんなに好きなのか、そしてその才能の芽がどのようにしてでてきたのか。』
『でも私にはこの生活は合わない。』
椿姫。主演 姫川歌子。
ある日亜弓の目に止まったチラシ。
『このお芝居、そうよ、お正月にパパと見に行ったわ。』
「わたしその券持っているわ。」
杉子が券をちらつかせ、意地悪に微笑んだ。
「どううらやましい?」
「杉子さん、その券下さい。なんでもします、なんでもしますから。」
亜弓は必死に杉子に頼み込んだ。
『ママ、ママに逢いたい!』
「えー!アルバイトの学生が急に来れなくなった!」
大晦日の前日、突然の電話に万福軒は騒然となった。
出前は杉子とマヤでやるしかなかった。でも杉子は出前をするのがいやでマヤに難題を吹っかけてきた。
「年越しそばの出前を全部あんたがやれたら、椿姫の券あげてもいいよ。」
亜弓は迷わず、
「いいわ、やります、全部私ひとりで!」
と言ってしまった。
周りを反対をした。女の子ひとりで120軒ものある出前をできるはずない。
でも亜弓は逢いたかった。ただひたすらママに逢いたかった。たとえ逢ってもママには私が娘であるとは思われなくても。
「だからきっと券ちょうだい。きっとよ!」
亜弓は走った。ひたすら走った。ご飯も食べず、次から次へと出前を運んだ。うではしびれ、肩が抜けそうだった。足は棒のようになり、息は荒くなった。
『あ、あと2軒・・・。それが終われば券がもらえる。ママに逢える。
いっしょだわ。一生懸命努力することは変わらない。私とマヤはいっしょっだのね。』
薄れ行く意識の中、亜弓は汽笛を聞いていた。
約束は果たした。
「券をちょうだい。」
亜弓は懇願した。しかし杉子は券を空へと投げてしまった。
「たかが出前持ちの子がなまいきよ・・・。」
『なんですって!私は姫川亜弓よ!あなたにそんなふうに侮辱される覚えはないわ!』
券はひらひらと海へ落ちていく。
「あっ、券が。」
亜弓は海へ飛び込んだ。
「マヤ!」
春子が泣き叫ぶ。
亜弓は必死に泳いで券をつかんだ。
『ママ!これでママに逢える!』
『ハ、ハ、ハハハ!この私が、冬の海に飛び込んで券を拾うなんて・・・。』
『もういや!こんな生活。マヤになりたいなんて思ったときもあったけど・・・。こんなみじめな生活はもういや!もう一度姫川亜弓に戻りたい!』
その時、大きな波が寄せ、亜弓は波に飲まれてしまった。
「亜弓さん?」
マヤの声がする。
「えっ。」
気が付くと亜弓はつり橋の上にいた。
「も、戻ったのね!」
「亜弓さん?」
もう1度マヤが声を掛ける。
「あっ、私たち助かったのね。・・・でも帰るまでは油断できないわ。」
亜弓とマヤは手を取り合いそっと後戻りした。
橋のたもとについた二人はほっと息をついた。
「ありがとう。」
マヤが笑顔で礼を言うが、亜弓はマヤの顔を見ることができなかった。
『あのさっきまでの不思議な体験は何?
マヤを見殺しにしようとした私への罰。
いいえ、私が私としての「紅天女」を目指しなさいという神の教えだわ。』
「亜弓さん、つり橋のこと、みんなに知らせてくる!」
元気に走っていくマヤを見ながら、亜弓は
『そう一生懸命がんばれば、勝てるかもしれない。』
と決意を新たにするのであった。